今月の特集



元服 今月の特集 『グローバル人材』 ~Freedom is my living motto -自由は私のモットーである-

元服 今月の特集 イメージ

 明治という新たな時代、その近代国家を担える自立した国民を育てること、それが国家の根本である、そう時代に先駆けて唱えた一人として、同志社大学の創立者である新島襄がいます。信念と情熱をもった教育者であった新島襄の生涯は、「Freedom is my living motto 自由は私のモットーである」。キリスト教の精神に基づく、人が自由に生きる権利を守る為、その人生を賭けたものでした。

 

遠く呼ぶ声、その光の世界、人民、市民として

 1864(元治元)年、血気盛んであった21歳の新島は、国禁を犯してアメリカへ密航します。それには、感性が鋭敏であった新島が、日本に伝わった聖書を読んで「自分は神のものだ!」と叫んだというエピソードもありますが、この脱国の実際のところは、未来の見えない幕末社会に愛想を尽かして、その閉鎖的な藩の束縛から逃れようとして、勢い余って、脱藩を飛び越えて脱国したものです。

 

 自由に憧れてアメリカへ渡った新島ですが、何ものにも束縛されることなく、自由のうちに自らの思うところに責任をもって行動する自立した人民、その市民社会の文化に多大な感化を受けています。その人柄を見込まれてマサチューセッツ州の篤実な家庭に養われた新島は、名門アマースト大学で、「Boys, be ambitious! 少年よ大志を抱け!」で有名なクラーク博士に学び、日本人として初の学位、理学士を取得しました。日本でキリスト教が解禁される前に、洗礼も受けています。

 

 新島がアメリカでその市民文化の恩恵を受ける一方、日本では明治維新が起こっています。1871(明治4)年、明治新政府の要人による岩倉使節団が欧米国情視察に訪れますが、その教育制度調査の案内を務めたのは、新島です。アメリカで大学教育を受けた新島は、もはや脱国者ではなく、日本政府にとって何としても獲得したい人材となっていました。しかし、束縛を嫌った新島は、「自分は日本を愛するが、奴隷ではない、命令する権利はない」として、「キリストのもとにある自由な日本市民」として、日本政府と対等な報酬に基づく契約を結んだうえで、喜んでその力を尽くしています。官職の誘いは断りますが、新島の報告書は、日本の教育制度に大きな影響を与えました。

 

 アメリカで学ぶこと10年、新島は帰国にあたって、キリスト教の集会でスピーチを行います。周到な原稿を準備しつつも、いざ檀上に立つと思い余って、閃くままに、「資金を得るまでは日本へ帰れない、それまではここを動かない!」、そう涙ながらに訴えます。その熱情に打たれた聴衆から、瞬く間に寄付が集まりました。日本を改革する起爆剤として、アメリカで身をもって知ったキリスト教の精神に基づく国民教育、いずれは大学を日本でも創りたい、それが新島の思い、信念となっていました。

 

伝わる声、届く声、響く声、一国の良心、その柱石

 1875(明治8)年、帰国して1年も経たないうちに新島は、京都で同志社大学の前身である同志社英学校を創立しました。32歳の時のことです。時代は、文明開化の真っ只中、絶好のタイミングであったと言えます。岩倉使節団において親交を結んだ木戸孝允も、国民教育を充実させたい思いは等しく、これに力添えしています。

 

 教育者として、新島の感化力には目覚ましいものがあったと思われます。寛容で、厳しさの中にも優しさが、優しさの中にも厳しさがあるところが、その人間的な魅力となっていました。

 

 新島が同志社第1回卒業生に贈った言葉は、「Go, go, go, in peace! Be strong! Mysterious hand guide you 行け、行け、行け、平和に!強く! ………… 」。

 そして、同志社創立10周年記念式典で、涙にむせびつつ語られたのは、「諸君よ、人一人は大切なり、一人は大切なり」。人として、一人ひとり、その尊厳を尊重する新島らしい言葉です。

 

 新島を象徴すると思われるのが、いわゆる「自責のムチ」事件です。それは、学校の運営を巡ってストライキを起こした生徒達に新島が、「自分の不徳であり、誰も責めない」と、自らの左手を太いステッキが3つに折れるまで打ち続け、「先生、もういいでしょう」と生徒に抱き留められたという、まさに自らの犠牲によって道を指し示した、激烈な事件です。これに自責の念に駆られて退学したのが、徳富蘇峰でした。徳富の新島への敬愛の念は深く、生涯、良き理解者として、支援しています。

 

 新島は45歳の時、その国民教育への思いをビジョンとして、世の中に大々的に強く打ち出します。それは、新進気鋭のジャーナリストとなっていた徳富蘇峰によって、全国の雑誌・新聞紙上において、全国民に広く支持を訴えかけたものでした。1888(明治21)年のことです。

 

 新島襄の思いとは、

「 …いかに能力に優れていても、薄志弱行な人物には、一国の命運を背負うことはできない。権力に脅えることなく、天真爛漫、自由のうちに自らの秩序と見識をもち、天と地に恥じることなく、それを手腕として自らの運命を切り拓く、そのような知識と品行をもつ人物を育てることが、教育の目的である。一国を成り立たせるのは、一人や二人の英雄の力ではない。この自ら立ち、自ら治める、自治自立の人民の力による。これらの人民は、一国の良心となり、柱石となる… 」。

 

 新島のこの思いは、先と現実を見据えたものでした。1890(明治23)年には、大日本帝国憲法による帝国議会の開会によって、国民が参政権をもつ立憲国家の時代の幕開けが決まっていました。新島はこれを踏まえて、教育を国家の一大事業として、官立に頼るのではなく、国民の自己負担による私立大学を創ることで、まさに近代国家の一端を担う自立した人民を育てることを訴えかけました。そして、同志社英学校に幅広い専門学科を漸次設けて同志社大学を設立する為、その資金援助を広く呼びかけています。

 

 この呼びかけに応えたのが、政財界の有力者達です。井上馨、後の早稲田大学を創立したばかりの大隈重信、渋沢栄一、岩崎弥之助等から、多額の寄付が集まっています。この政財界の強い後押しの背景には、初代内閣総理大臣伊藤博文の欧化政策がありました。新島と官との間には激しい軋轢もありましたが、これは、産官学民連携の走りとも言えます。

 

声なき声、そして、生きて目にすることのない世界

 この同志社大学の設立に奔走している最中に新島は、かねてから覚悟していた心臓病による死の宣告を受けています。しかし、医者の制止を振り切って上京中、発作に見舞われ、1890(明治23)年の1月、47歳で永眠します。そして、その年の11月、大日本帝国憲法による帝国議会が開会されています。

 

 遠く、同志社に思いを馳せ、「小玩具の製造場とならぬよう…」、そう言い残した新島の遺言、それは、新島が語るのを徳富蘇峰がしたためたものですが、その最後は、「天を怨まず、人を咎めず」。そして、その最後の声は、「狼狽するな、Goodbye、また会おう」。

 

 京都に葬られた新島襄の墓碑銘は、勝海舟の筆によるものです。海舟に「お前さんの理想とする教育をいったい何年で成就させるつもりかい」と問われた新島は、「およそ200年」と答え、それに満足した海舟が、「それなら賛成してやろう」、そう言ったと伝えられます。

 



吉井 礼以子
佐川 圭 画