今月の特集

元服 今月の特集 タイトル
元服 今月の特集 イメージ


吉井 礼以子   文
佐川 圭   画

 日本の心、その洗練された文化の魅力、それを広く海外に紹介してくれた外国人の一人に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)がいます。小泉八雲は明治の中頃である1890(明治23)年に来日するや否や、日本に魅了され、日本女性と結婚したのち帰化しています。日本の人々と交わり、その風物や民間信仰や迷信、風習といったものを深く知るようになった八雲は、それを随筆や小説のかたちでアメリカで出版しています。『雪おんな』や『耳なし芳一』といった怪談話は、よく知られているかもしれません。小泉八雲は、変わりゆく時代、近代化が進むなか、失われてゆく古き良き日本の面影、その魂を偲びながら、日本に骨を埋めています。

 

 

その日の光、おおらか

 

 小泉八雲の心に響いたのは、日本の風土、その優しく包み込むような柔らかな風景でした。その空気はどこまでも澄みきり、その空は抜けるように高く、その山並みは穏やかで雲にかすんでいました。そして、水面には光がさざめき、木々や花々は精霊が宿るかのように生き生きとしています。その木陰から微笑みかけてくれるのは、お地蔵様やお狐様といった神々でした。それらが、季節が巡るにつれて、優しくふりそそぐ日差しによって、その色や形が微妙に移り変わるのです。日本の風景にある自然な調和、それは神々しいほどのものでした。

 

 自然のうちにある調和、日本人の美意識は、それに由来するものであり、その模倣です。それは、たわいない日々の彩りのなかにもあります。野にある風情のまま生けてある花々、菊や蓮の花びらを模した砂糖菓子、桜の木の箸や雀や兎が飛び跳ねている箸袋、そして優美で調和がとれた漢字、それが生き生きとして、黒や白、紺や紅などで表されている町並みは、柔らかな遠景と相まって、風景全体として巧みな効果を上げます。日本人の美意識である自然な調和とは、この全体の構図を踏まえた組み合わせの巧みさです。そして、それは日本人に代々受け継がれている、直観的な本能なのです。

 

 そして、日本人の美意識の象徴とも言えるのが、日本の風景を置き換えたような、その庭です。そこには山もあれば、川もあり、自然のままに形づくられた石もあります。それぞれの石には性格があり、その大きさや色調、明暗を生かして、それぞれの場に置かれています。そして、この庭では、夏には蝉や蛙がうるさいほどに鳴き、秋ともなればトンボが飛び、そして、春の訪れを告げるのはホトトギスです。日本の庭には情緒が漂い、それを味わう日本人が思うのは、世の無常です。生あるものに永遠なものはない、その儚さゆえに、揺らめく輪のなかを幻のように踊り、回りゆく、その調べ、生が愛おしまれ、慈しまれるのです。

 

 この生あるものの真理、それを日本人は子供のうちに遊びながら知ることになります。日本の子供達が遊ぶのは、その庭であり、蓮池のある寺や神社の境内です。そこでは“鬼ごっこ”や“影踏み”といった遊びも、精霊を迎える盆踊りも、縁日の楽しい催しも、相撲も、公の演説も行われます。そもそも日本人の信仰心といったものが、素朴で明るく、人々は笑いさざめきながらお参りし、お賽銭をチリンカランと投げ入れると、手を合わせたり、打ち鳴らしたり、そのたたずまいも至って自然です。そして、お札をもらい、おみくじに一喜一憂したかと思えば、子供達はそこらで遊び回り、大人達は笑顔で日々のことなどを語り合うのです。大人も子供も気楽に集い楽しむ場、それが日本の寺や神社でした。

 

 日本人の信仰心のなかにあったのも、自然な調和です。人々の家には仏壇もあれば神棚もあり、それぞれにお供えがされ、仏様の教えが唱えられることもあれば、“神隠し”にあった子供が戻ってくれば、それはイタズラ好きの子狐に化かされて遊んでいた話として、人々に語り継がれるのです。そもそも神社で祀られているのは、古くより自然を司る神々にようでもあり、祖先のようでもあり、これといった教えもありません。その何も「ない」おおらかさ、漠としたところが、日本人の生あるもの、自然と人生を愛おしみ、慈しむ、その本能の源として、無意識のうちにも日々の営みに組み込まれているのです。

 

 

その月影、清らか

 

 日本人の生あるものを愛おしみ、慈しむ心は、人への思いやりとなります。外国人である八雲を出迎えてくれたのも、その和やかな微笑みでした。それは無心の仏様の微笑のようであり、その眼差しは優しく、静けさをたたえており、かすかな微笑みであるからこそ、清く、安らぎを覚えるものでした。日本人は楽しい時ばかりでなく、痛みや怒りを覚える時も、死を前にしてさえも、静かに微笑みます。低く穏やかな声を立てて笑ってみせさえします。日本人の微笑みは、人への思いやり、礼儀であり、その美意識でもあります。

 

 日本の家の構造も、その美意識、日本人の調和する心を育ててきました。日本の家屋は襖と障子で組み立てられ、それを隔てても人の気配は伝わり、日中は鍵をかけることもなく、光や風を通すために広々と開け放たれています。そこに隠し立ての余地はなく、人々の習慣も癖も筒抜けです。それだからこそ、日本人は見てはならないことは見ず、聞いてはならないことは聞かず、余計なことは口にしません。人への助言も、角が立たないように言葉を選んで示唆し、人を傷つけるようなことはしません。思い上がることなく、見下すことなく、それが日本人が本能的に身につけている礼儀であり、人を思いやる心です。

 

 日本人の思いやりの心、それは美徳であるとともに、弱みともなります。日本人の間であれば「あうんの呼吸」で通じるものも、外国人には理解しがたく、誤解が生じることもあります。そして、その調和する心、全体のために自らを犠牲にする心、それが過ぎるのは独自の色を出していくことの妨げともなり、自らを殺すことにもなりません。しかし、「三人寄れば文殊の知恵」とも言われるように、他を生かし、自らも生かされる、その互いに助け合い生かし合おうとする日本人の心、その心が通い合う純粋で静かな喜び、それを日本人が忘れることのないことを、小泉八雲は願ってやみませんでした。

 

 

その心、その魂、安らか

 

 日本人の心にあるもの、その魂、それは何と言ったらよいのか、理屈ではなく、「亡くなった人々はみな仏様になる、神様になる、そして、どこかから我々を見守っていてくださる」、そう、それとなく信じて、その言霊の響きに耳を澄ませ、そして、「お蔭様で…」と今は亡き人々、失われたものたちを偲びながら、今を生きていく、そんな心持ちのような気がするのです。